2009年9月20日に発行された中日新聞朝刊記事を紹介します。
私は、明治年間から続く豆腐屋の4代目として生まれました。農村地帯ということもあり、小学生までの家業は、兼業農家でした。お米や野菜は買うものでなく家にあるもの。よく廃鶏も頂いて家でつぶして食べました。ごはんを粗末にするとよく祖父から目がつぶれるといわれたものです。
東京で大学を卒業し、商社でのサラリーマン生活の後に、結婚と同時に家業を継ぎました。ネクタイの生活から前掛け長靴の生活に、180度の変身ぶりです。なれない仕事と同居生活、そして何とか売上を伸ばさなくてはと、苦悩していたときに第一子誕生。それは、うれしいものです。当時は、家内制手工業でしたので工場(こうば)に乳母車を持ち込んでの子育てしながらの家族総出の仕事です。子供が泣くと、油揚げの生地を手に持たせてあやし、離乳食も豆腐でした。
そんな時にふと思うことがありありました。それは、喜んで豆腐を食べている子供の顔と裏腹に自分の作っている豆腐が、本当にいい豆腐なのかという自問自答がそこにあったのです。安く作るために輸入大豆を使い、簡単に出来るのですまし粉(硫酸カルシウム・石膏)で作った豆腐だったのです。本来の日本の豆腐は、にがり寄せが基本ですが、第2次大戦で途絶えてしまい、国産大豆も輸入の自由化で減少の一途をたどっていました。今、自分が伝統的な豆腐を守らないと、消えてしまうという想いと「自分の子供に食べさせたい豆腐」を作ろうというのが、大きな転換期になりました。
にがり豆腐は、凝固反応が早いため作るのが難しく、高価格で高品質の大豆(国産大豆)でないと条件が出しにくく、毎日失敗の連続でした。半年後、やっと納得の行く豆腐ができるようになりました。それは、大豆本来の味が引き出され、甘くて旨みのある豆腐になったのです。ちょうどそのころ地元の小学校の先生から、学校の授業で豆腐作りがしたいと相談を受けました。実際に子ども達が豆腐作りをして試食をするときに、8人のグループの一人が定規を持ちだして切り分け、じゃんけんで自分の分を決めていました。そして、みんなが大事そうにほんのわずかな豆腐を食べみんなニコニコ笑っている光景を見ました。「なんて素敵なんだろう」これから、本物の豆腐作りをこどもたちに伝えていこうと心に決めました。まだ「食育」なんて全然知らなかったころですが、今振り返れば、自分の子供から始まり、小学生に出会ったことで自分自身の先が見えて気がします。
中日新聞朝刊 連載「味な提言」全6回掲載